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GWに福島は二本松城にフムフムしに行ってきた

二本松城とは

福島県二本松市にある平山城で日本100名城の一つにもなっている、霞ヶ城・白旗城とも呼ばれている。「霞ヶ城公園」として日本さくらの名所100選にも選ばれている。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。天守閣を期待して登ると凹みます(笑)。

 

歴史

室町時代

室町時代の1341年に室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が最初の居を構え、地名を二本松と改称したのが初まりで、畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)にこの地に二本松城を築いた。

安土桃山時代

安土桃山時代(戦国時代)になると伊達政宗から攻撃を受ける、このとき15代当主であった二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た、輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺されることになる。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城した援軍の力もあって政宗を撃退する事に成功した、かなり防御に優れた城だったようだ。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、二本松氏は滅亡することになった。 

政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成・町野重仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。

上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。

江戸時代

元和8年(1622年)、本山豊前・本山河内が城代となり、後に外池信濃守が城代となった。

寛永4年(1627年)、秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に忠知と入れ替わりに加藤嘉明が入ると、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野烏山城から5万石で入城した。翌寛永5年(1628年)に重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の次男・明利が入城した。

寛永20年(1643年)、嘉明の嫡男明成が改易となり、甥で明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行った。この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した(白河口の戦い・二本松の戦い)。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。

近現代

明治5年(1872年)、廃城令によって残る建物も全て破却された。

昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された。平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。

平成27年10月10日から9日間、足場を組んでLEDを取り付けた模擬天守が期間限定で構築される。

出典:wikipedia

 

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二本松少年隊群像と箕輪門

二本松少年隊

幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算すると言う入れ年の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。

二本松少年隊は藩内各地に出陣した62名を指すが、西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷して称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。

二本松少年隊群像

戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と、我が子の出陣服を仕立てる母の姿を、日本芸術院会員・名誉市民の彫刻家橋本堅太郎氏がブロンス制作、平成8年建立

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階段を登ると大きな箕輪門が見えてくる、箕輪村の樫の巨木を用いて作られた事から箕輪門という名前になったらしい。

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箕輪門

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日影の井戸と言い「日本三井」の一つ石積みで深さ14m底から北方に12m余り横堀りされている。

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洗心亭より霞池を望む

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帰りの箕輪門

もっと見てもらいたい写真はたくさんあるのですが、大量にアップしても見飽きてしまうのでほどほどにしておきます、他の景色は実際訪れて見てみて下さい!ここは城を見るだけでなく綺麗な庭造りを見て楽しむ事もできますし、季節事にいろいろなイベントなども開かれています、つい最近まではさくら祭りが開かれていました、他にも二本松の菊人形なども有名ですよね。二本松では菊人形と同時期ですが二本松の提灯祭りや木幡の幡まつりも有名です。地元福島の二本松城なかなか見応えのあるお城でした!

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とんとんの丘 もちぶた館

この日の帰りに大河原にあるとんとんの丘 もちぶた館に寄ってお手軽バーベキューをして帰りました、ここは知ってる人は多いかと思いますが手ぶらでバーベキューや温泉に入れて周辺は里山に囲まれて自然がたくさんあります。動物とふれあえるエリアや栗園、ラベンダー農園、ブルーベリー農園等があり子供連れでも楽しめますよ!

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